── 第弐章 ──
其ノ玖 ── 神ニ従イシ翠ノ華 (9/11)
|戻 元来《ガンライノ セカイニ》 |世界《モドス》。
|夫《ソレ》 |則《スナハチ》、|不 鬼 在《オニアラザル》 |戻《タダ》 |〝惟《ニンゲン》| 人間〟《ノミノ セカイニ》 |世界《モドスコト》 |也《ナリ》。
|望 其 者《ソレヲ ノゾムモノ》、|不 望 者《ノゾマザルモノ》、|両者 在《リョウシャアリ》。
|然而《シカレドモ》、|雖抗《アラガフト イヘドモ》、|無 敵《シンリキニ カナフ》|神力《トコロ ナシ》。
|夫《ソレ》 |則《スナハチ》 |運命《 サダメ 》 |也《ナリ》。
|神力《シンリキ》──|夫《ソレ》 |桜《サクラノ》 |能力《チカラノ》 |正体《ショウタイ》 |也《ナリ》。
【世界を元に戻す。
それ即ち、鬼がいない〝人間だけ〟の世界に戻すこと。
それを望むものもいれば、当然逆もいる。
しかし、どんなに抗おうと、神の力の前では平伏すことしかできないのが、この世の定め。
──神の力。
それこそが、桜の|能力《ちから》の正体だった。】
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|蜀国《しょくのくに》の都・|成都《せいと》に戻る道中でのこと。
|伯約《はくやく》は馬の上から、隣を歩いている狼莎に、先程の出来事の詳細を問うていた。
「なぁ|狼莎《ろうさ》」
「どうしたの〜?」
「さっきの桜。
あれって、あの割れるような音と同時に、|変化《へんげ》が解けたんだよな?」
「あ……気付いてたんだ」
「一瞬だったから見逃しかけたが、あの割れるような音の直後にお前らを見たら、桜の|変化《へんげ》が解けてた。
だからあの音と変化が関係してるんじゃないかと思ったんだが、当たってたか」
先の戦の中。
|子元《しげん》と共に、柱の上から飛び降りている最中、割れるような音が耳に届き。
余裕があった伯約は、急降下する中で、その一部始終を目にしていたのだった。
「もしかして、撤退を切り出したのは、その異変に気付いてたから……?」
「ああそうだよ。なんとなく、だが、退くべきだと思ったからな。……悪いか?」
「そんなことないよ〜、仮にあの後戦おうとしたところで、きっと|薙瑠《ちる》ちゃんが撤退を要求してきたと思う〜」
「そうか。……この戦で亡くなった命……無駄にしちまったな」
伯約は何処か辛そうな面持ちで、|朱《あか》に染まる空を見上げた。
ほぼ桜と菊が闘うだけで終わった、蜀国と|魏国《ぎのくに》の戦い。
両国の国境付近である|漢中《かんちゅう》にて、伯約率いる五百の部隊と、魏国の大将・|子元《しげん》率いる一千の部隊が衝突するも、死傷者は両国合わせて数百人。
負傷者の数が多いだけで、死者は数十人程度、その殆どが魏国の者だった。
数的にも不利な状況の中、蜀国の死者が少なかったのは、鬼の力による地形変動が功を成したから。
そしてその後の〈|六華將《ろっかしょう》〉の桜と菊の戦いによって、兵士の戦闘意欲が削がれたことも、死傷者を少なくした要因のひとつであるだろう。
伯約が、桜に斬られるためだけに仕掛けた戦。
故になるべく死者が出ないよう、彼は最低限の兵数で向かった。
普通なら、魏国は確実に勝利を収めるために数千の部隊で迎え撃ち、こちらは間違いなく壊滅──いや、全滅していただろう。
しかしそうならなかったのは、〈六華將〉の狼莎が手を回してくれたからだ。
〈六華將〉は、国を潰すことを目的としない。
寧ろその逆で、各国に〈六華將〉が所属する限り、どの国も絶対に潰さない。
それだけは保証すると、狼莎は言った。
それは同時に、自国の安全が保証されるだけでなく、他国も潰れることがないということになるわけだが、伯約にとって他国が生き残ろうが潰れようが、そんなことはどうでも良かった。
この国を守りたい。
そして、この世界を──元に戻したい。
ただそれだけだった。
鬼として生まれた自分だけが生き残り、親しい関係を築いた兵士たちは死んでいく。
鬼は不老で長寿だが、|人間《ヒト》は違う。
|人間《ヒト》は老いてゆき、尚且つ短命。
そして何より──圧倒的に脆い。
それでも、そんな彼らは伯約にとって大切な存在だった。
そんな大切な存在は、次々と消えていく。
新たに関係を築いては消えてゆき、また別な|人間《ヒト》たちと新たに関係を築く──
その繰り返し。
伯約はこの世に生まれてから、まだ三十年程しか過ごしていないものの。
既に多くの別れを経験していた。
幼い頃から、自分だけが取り残されたかのように、時を経るごとに周囲にいる者の顔触れが移り変わってゆき。
二十を過ぎた頃には。
そんな世界が、嫌になっていた。
そんな状況にあったとき。
唯一同じ鬼であった狼莎が、手を差し伸べてくれた。
──私だけは、あなたの側に居られるから。
その言葉が。
彼女の存在が。
伯約にとっての、心の支えになった。
そして〈|六華將《彼女たち》〉の目的を知った。
──こんな世界はもううんざりだ。
──彼女の助けになりたい。
伯約が世界を戻したい、〈六華將〉に協力したいと思ったのは、そんな単純な理由だった。
その手助けをするために、唯一自分に出来ること。
それが〝桜に喰われる〟ことだった。
桜に喰われる。
其れ即ち、桜に斬られること。
後を狼莎に任せて、命を捧げる覚悟で、伯約は戦場に出向いた。
そんな身勝手な目的のためだけに、自国の兵士たちを命の危険に晒したのにも関わらず。
伯約は斬られることなく兵を退いた。
目的を果たすことなく撤退したことで、今回の戦で亡くなった人々は、一体何のために死んだのか。
目的を果たせば無駄にはならなかったはずの命を、無駄にしたのだから。
撤退という選択肢は、采配を誤ったか──……?
「無駄なんかじゃ、ないよ」
足元の辺りから、凛とした声が耳に届いた。
そちらに視線を向ければ、優しく微笑みながらこちらを見上げている狼莎の姿があった。
「戦の前に言ってたよね、彼らがこの戦についていくと決めたのは、あなたに忠誠を誓ってるから、あなたを守るために戦に行くんだって。あなたの『斬られる』という目的を知った上で、彼らはそう言ってた。それはつまり、あなたを桜以外の人には斬らせないってこと。
今回の戦は、確かに本来の目的を果たすことはなかったけど……でも、彼らの『あなたを守る』『桜以外に斬らせない』という目的は、達成してるよね」
彼女にしては珍しく、はきはきとした口調で言葉を紡いでいる。
彼女の言うとおり、今回の戦で、伯約は無傷だった。
子元との交戦はあったものの、それは無傷で切り抜けることができていて。
それ以前に、人間の相手は人間で十分だからと、彼らは「桜と戦いたい」という伯約の意志を尊重して行動してくれた。
それがあったからこそ、伯約は人間相手に余計な戦いをすることなく、余裕を持って魏国の鬼の相手をすることができたのである。
彼らの行動なくして、無駄な戦いをせずに済むことはなかっただろう。
そしてそのことは同時に。
「伯約を守る」という目的を、彼らなりに達成させたことに、他ならない。
そんなことを考えながら、伯約は彼女の言葉に耳を傾けていた。
「もしも、同行してくれた人の一人でも欠けていたとしたら、その結果にはなり得なかったかもしれない。
そう考えると、ひとりひとりの行動が全て、意味のある|現在《いま》という結果に繋がってるって言えるよね。
無駄だと思ってしまったら、本当に無駄になってしまう。
けれど、考え方を少し変えるだけで、それは決して無駄ではなくなる。
大切な|存在《ひと》の死を、どう捉えるかはあなた次第、だよ」
静かに話を聞いていた伯約に、狼莎はにこりと笑いかける。
そんな彼女の言葉を、伯約以外にもすぐ近くで聞いていた者がいて。
「あの……伯約様。
恐れながら、少しだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
おずおずと口を挟んだのは、伯約と狼莎のすぐ後ろで、馬に乗っているの兵士の一人だった。
彼は二十五歳くらいの若い青年。
伯約が今回の戦において、兵の指揮を任せた才能ある人間だ。
「……どうした?」
「はい。今回の戦に参加した兵士は皆、確かにあなたの目的を……死ぬつもりであるということを、理解した上で参りました。
しかし、本心は違います」
落ち着いて話す彼の声に、僅かに力が入る。
それまでどこか柔らかだった表情も、真剣な顔になっており。
真っ直ぐと伯約を見て、彼ははきはきと言葉を紡いでいく。
「鬼にまつわる詳しい事情は知り得ないので、なんて身勝手なと、お思いになるかもしれませんが……わたくしを含む、同行した兵士は皆。
あなたに死んでほしくないと、思っておりました。
それが我々の本心です。
鬼と|人間《ヒト》という種族の違いはあれども、あなたは我々に、とても優しくしてくださった。
そして鬼であるが故のあなたの苦しみも、少しは理解しております。
故に本心を隠してまで、皆同行したのです」
「……つまり?」
「つ、つまり、ですか……?」
「ああ。その先の言葉を、ちゃんとお前の……お前らの口から聞きたいんだ」
伯約の思わぬ言葉に、彼は一度動揺するも、その意図を理解して、嬉しそうに|微笑《わら》った。
そして言う。
力強く、はっきりと。
「人間である我々でも。
あなたをお守りすることができて、幸せです」
そんな彼の声に、周囲にいた多くの兵士たちも賛同の声を上げた。
彼の微笑みが。
兵士たちの賛同の声が。
とても眩しく、温かくて。
伯約は思わず、前を向くことで視線を逸らした。
そして同時に。
大切な|存在《ひと》の死を、一度でも無駄だと思ってしまった自分を恥じた。
恥じたが故に、彼らを見ていることができなかったのだ。
伯約は自身の手のひらに視線を落とす。
そしてひとつひとつ、ゆっくりと、自分の思いを言葉にしていく。
「……俺は……自分が鬼として生きてる、この世界が嫌いだった。
そんなときに狼莎……お前から目的を聞いて、そして待ちに待った桜の鬼が現れたと知って。
俺一人だけで、成し得ることじゃないのに。
世界をもとに戻すことを、焦りすぎてた」
「……うん」
少しずつ紡がれる言葉を、狼莎は優しく、包み込むように受け止めている。
「|人間《ヒト》は鬼より脆いのに……鬼の俺は、守ってもらわなくても大丈夫なのに。
それを分かっていながらも、あいつらは俺を守ってくれてる」
「そうだね〜」
「それは俺が、自分を慕ってくれてる兵士や国民を守るのと同じで。
あいつらも俺を守ろうとする。
今回の戦で、今の話を聞いて、改めて気付かされたよ。鬼とか|人間《ヒト》とか関係なく、守りたいと思うものを守るのが当たり前なんだって。
そして……自分の命を捨てることは。
自分を守ろうとしてくれてる奴らを、裏切る行為なんだってことにも」
「……うん」
「あいつらが守ってくれたこの命。
──いや、命だけじゃなくて身体も。
俺は大切にしていきたい」
伯約は、見つめていた自身の手のひらを、ぐっと力強く握りしめた。
そんな彼を見て、相槌を打ちながら聞いていた狼莎も、ふふっと微笑んだ。
近くにいた青年を含む兵士たちも、嬉しそうな顔になっていたのは言うまでもない。
「じゃあ、『桜に斬られる』以外の方法を考えなきゃだね〜」
「それ以外の方法なんてあるのか?」
「ん〜、どうだろうね〜……でも、それよりも今は、あの異変の謎を解くのが最優先、かな」
「ああ、|変化《へんげ》が解けたやつか」
ふわりと吹いたそよ風が、二人の髪を揺らす。
真っ赤に染まっていた空は、徐々に暗くなりつつある。
そしてこのとき、既に。
空が闇に染まっていくように。
〈六華將〉──特に桜のもとに、とある影が忍び寄っていた。
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