── 第参章 ──
其ノ肆 ── 雲ニ覆ワレシ桜ノ記憶 (4/11)
|過 於《ムラニテ》 |村《スゴス》、|青年《セイネン》|与《 ト 》 |少女《ショウジョ》。
|嗚呼《アア》、|人間《ニンゲン》 |安《イヅクンゾ》 |知 彼等《カレラノ》 |行方《ユクヘヲ》 |哉《シランヤ》。
|知 夫 者《ソレヲシルハ》、|則《スナハチ》〈|逍遙樹《ショウヨウジュ》〉|也《ナリ》。 |妖《アヤシク》 |輝《カガヤキタル》 |桜樹《オウジュ》。
|負 終之役目《オハリノ ヤクメヲオフ》 |桜《サクラガ》 |触 其樹《ソノキニ フレシ》 |時《トキ》、
|時之歯車《トキノ ハグルマハ》 |進 針《ハリヲ ススム》。
|其《ソノ》 |時《トキ》、|彼女《カノジョ》 |初《ハジメテ》 |知《シル》。
|自身《ジシンガ》 |囚《ウンメイノ》 |運命之《トリカゴニ 》|鳥籠《トラワレシ》 |者《モノナルコトヲ》。
【村で暮らす青年と少女。
彼らは|現在《いま》、どうしているのか。
それを知るは〈|逍遙樹《しょうようじゅ》〉。
妖しく輝く桜の樹。
終わりを背負う桜がその樹に触れし時、時の歯車は針を進める。
その時に、桜の彼女は初めて理解する。
自分の置かれている状況──自身が運命という名の鳥籠に、囚われし者であるということを。】
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「おはようございます、|子元《しげん》様。|薙瑠《ちる》です」
彼の部屋の前で、扉を軽く叩きながら声をかける。
するとすぐに扉は開かれ、中から彼が姿を現した。
「おはよう。……準備はできたのか?」
「はい。子元様も準備はできましたか?」
「ああ、大丈夫だ。では……行くか」
彼は後ろ手に扉を閉めると、コツコツと廊下を歩き出した。
彼女もその後に付いていく。
|金烏《たいよう》が昇り始め、|洛陽《らくよう》の都が徐々に明るく照らされてゆく。
話し合いの翌日、二人は早速あの村──〈|逍遙樹《しょうようじゅ》〉のある村へ赴くことになった。
結界を破られた〈逍遙樹〉に、対策を施す為だ。
〈逍遙樹〉を|遷《うつ》すことができるのは桜の鬼のみであり、他の場所に遷ると、もともと〈逍遙樹〉であった木は普通の木に戻る。
|呉国《ごのくに》の次の動きが読めない今、あの村から〈逍遙樹〉が無くなっていることに気付かれると、|柊《ひいらぎ》の命が危ないかもしれない──
そう考えた|鴉《からす》は、呉国には幻を見てもらうことを提案した。
村にある木に幻術を施し、〈逍遙樹〉が未だそこにあるかのように見せる、ということである。
幻術は、桜が得意とする能力のひとつだ。
強力なものであれば、桜自身が解くか、桜が死ぬまでその幻術は解けない。
これを利用して呉国を騙す──それが今回の目的だ。
移動手段の馬に乗るため、二人は馬小屋へ向かった。
世話役の人が二人に気付いたようで、駆け寄りながら声をかける。
「おはようございます、子元殿、薙瑠殿。子元殿はいつも乗られているもので良いと思いますが……薙瑠殿はいかがいたしましょう」
「ああ……そうだったな」
「……あ……あの!」
話しを進めようとする二人に、薙瑠は手遅れになる前に申し出ようと、口を開く。
実は彼女には、とある心配事があった。
「なんだ?」
振り向きながら問いかけてくる子元に、薙瑠は言葉を詰まらせながらも、その心配事を打ち明けた。
「あ……あの……実は私、馬に……乗ったことが無くて……」
「…………は?」
彼女の言葉に子元だけでなく、世話役の人も目を丸くしている。
思えば彼女はこれまで、戦に行くときに乗馬を勧めても全て断っていた。
それは側近という立場を考えての遠慮、だと思っていたが。
「本当に乗れない……のか?」
「……ごめんなさい……」
「……そうか、まあ必ず乗らなければいけないわけではないが……」
俯き気味の彼女を慰めるように、彼女の頭を軽くぽんぽんと撫でた後、子元は顎に手を添えて半ば考え込む。
「とりあえず、子元殿の馬を用意しますね」
「ああ、頼んだ」
世話役の人は、|拱手《きょうしゅ》をしながら承知しました、と答えたあと、馬小屋へと駆けていった。
「……あの、私は別に、馬に乗らなくてもついていけるので……」
「鬼とはいえ、流石に馬の走る速さで走り続けるのは体力がもたないだろう」
「なんとかなる……と、思います」
そういう彼女の目は真剣で、決して冗談で言っているわけでは無いようだ。
とは言え、いくら何でも一人だけ走らせるという訳にもいかず。
「……俺と一緒に、の…………」
無意識のうちに、そんな言葉を紡いでいたらしい。
「の……?」
不自然に途切れた彼の言葉に、薙瑠は首を傾げている。
(──おい、俺は今、何を言おうとしていた……?)
考えなしに紡がれた言葉に対して、子元は自問自答する。
その時思い浮かんだのは、幼い頃の自分の姿。
まだ一人で乗馬ができない間は、父と同じ馬に跨っていた。
その光景を思い浮かべているということは、今、間違いなく自分は、「俺と一緒に乗るか?」と尋ねようとしていたということだ。
(……な……何を考えてるんだ俺は……!?)
自分の言わんとしていたことに気づいた瞬間、羞恥に襲われ、自分の口を片手で塞ぐ。
そんな子元の行動を不思議に思ったのだろう。
「……子元様?」
彼女の名を呼ぶ声に、子元は思わずびくりと肩を振るわせる。
こちらを覗き込むように見ている彼女と目が合うと、先程まで考えていたことが脳裏に浮かび、気恥ずかしくなって目を逸らした。
「な、なんでもない。とにかく、今のところ焦って行く必要はないからな、お前が己の脚でいいと言うなら乗らずに付いて来い」
子元が早口でそう述べると、薙瑠は申し訳なさそうに頷く。
「はい、分かりました。……すみません」
「……いや、気にしなくていい」
子元は項垂れる彼女の頭に、再び軽く手を乗せる。
それが嬉しかったのか、薙瑠は顔を上げて、柔らかく微笑んだ。
今まで気にしたことがなかったが、彼女のその笑顔は──あの少女の笑顔に、どこか似た雰囲気があった。
*
*
*
子元と薙瑠、そして二人に同行している数名の配下の者たちは、城門から|都城《とじょう》を出て、村へと向かう道のりにいた。
周囲には、視界いっぱいに田畑が広がる穏やかな風景がある。
その中に、馬に乗る彼らの姿があるのは画になっていた。
もちろん、薙瑠に関しては己の脚で歩いているわけだが。
「こんなにも穏やかだったんですね、洛陽の周辺は……」
「この辺りは昔からこんな感じだ。何も変わらない」
「いいことですね、各地で戦が行われる世の中で、変わらない景色があるというのは」
「……そうだな」
馬に乗る子元の隣を歩きながら、薙瑠は微笑ましく情景を見渡していた。
周囲に遮るものが殆どないため、心地の良い|微風《そよかぜ》が、彼らの頬を撫で、髪をふわりと揺らしている。
(……そういえば。こいつは、今まで……|魏国《ここ》に来る前まで、どこにいたんだ……?)
心地の良い風に当たりながら、子元はふとそんなことを思っていた。
今まで気にした事も無かったが、馬に乗れないという事実を知り、気にならずにはいられなかったのだ。
彼女が魏国に来るまで、〝桜の鬼〟の話を聞いた事がない。
けれど、彼女の見た目からして、二十年の時を過ごしているかいないかくらいだろう。
……と言っても、鬼は不老なため、見た目で判断できる筈も無いが。
「薙瑠、少し……話を聞いてもいいか」
「はい、何の話でしょう」
薙瑠は子元からの問いかけに返事をしながら、彼の方へと顔を向ける。
左目の眼帯を隠すように伸びる、綺麗な青い髪。
そして、その髪から覗く、髪色よりは濃い色をしている青い右目。
──あの少女も、同じような青い眼を持っていた。
そして髪色も──少女の変わりかけていた青い色とほぼ同じ。
もしもあの少女が成長していたら、ちょうど彼女と同じくらい、だろうか。
(…………まさか、な)
頭にふと、とある考えが浮かんだが、そんなはずはないとすぐさま否定する。
「……あの、子元様……? 話があるのでは……?」
問いかけて以来ずっと黙ったまま自分を見ている子元を不思議に思ったらしい彼女は、半ば首を傾げながら呼びかけた。
しかし、子元はその呼びかけに直ぐには返事をせず、彼女に注いでいた視線を前へと移しただけで、再び沈黙する。
静寂の中、複数の馬の蹄の音と、穏やかな風が吹く音だけが響く。
そんな音に、かき消される彼女の歩く音。
しっかり耳を傾ければ、さくさくという小さな足音も、確かに聞こえる。
──この音のように、彼女自身も……隠れるように生きていたのだろうか。
話を切り出す決心がついたのか、暫く辺りの音に耳を傾けていた子元は、漸く口を動かした。
「お前は、|此処《ここ》に来るまで……どこに居たんだ?」
「|魏国《ぎのくに》に来る前……ですか?」
意外な質問に僅かに目を見開いた彼女は、その状態で少しの間沈黙したが、直ぐに答えてくれた。
「ここに来る前……というよりは、正式に仕えることになる前、と言ったほうが分かりやすいかと思いますが、子元様の〈|開華《かいか》〉をする一年ほど前から、実は洛陽の都に居たんです」
「……嘘だろう」
「本当です。信じられないでしょうけど、神流様と鴉様が上手いこと手を回してくれたお陰で、私は都城内で寝食だけでなく、刀の修行もできました。もちろん、人目を忍んで、ですけど。だから神流様は、私に刀の扱いを教えてくださった、謂わば師匠的な存在でもあるんです」
「なるほどな……いや、待て。
お前……刀も扱えなかったのか……?」
「あ……えと、はい、そういう事に……なりますね」
「……」
子元は衝撃のあまり呆気にとられているようで、目を丸くしたまま薙瑠を見つめている。
少しの沈黙が流れたあと、僅かに俯き気味な彼女を見て、再び口を開いた。
「……何か事情があるんだな」
「……そう、ですね。でも、別に隠すような事ではないんです。ですから言いますが……」
僅かに間を開けたあと、薙瑠は意を決したように顔を上げて前を見る。
その横顔は何処か寂しそうに見えた。
「私は、過去のことを……──」
一際強い風が吹く。
その音にかき消されそうなほど小さな声で、彼女は確かにこう言った。
──覚えてないんです、と。
「覚えてない……?」
「はい。記憶が無いみたいなんです」
「……記憶が、無い……」
予想外な彼女の言葉に、子元は同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
こんな時、どんな言葉をかけたらいいのだろうか。
自分の身勝手な言葉で、人を傷つけるようなことは──二度と、したくない。
黙って考え込む彼の様子に気付いたのか、薙瑠は慌てて言葉を付け加えた。
「あの、あまり深刻に捉えないでください。確かに、記憶がない、というのは普通ではないことですが……私はそんなに、気にしてないので」
そう言う彼女の顔は、無理して微笑んでいるような、辛そうな顔をしていた。
普通ではない、という言葉は、彼女自身が紡いだものではあるものの。
その表現は、自分は異常なんだと言っているようで、それが彼女の胸に刺さっていたようだった。
一方で、彼女の辛そうな顔を見た子元は、罰の悪そうな顔をする。
記憶が無い、という彼女の言葉とその表情から、過去のことを聞いた罪悪感を感じたらしい。
「……悪い、聞かない方がよかったか……」
「……」
──聞かない方が、よかった。
その言葉にはどんな意味が込められているのだろう。
子元は彼女のことを思って、辛いことを尋ねて悪かった、という意味で言っているのだろう。
けれども、その言葉は。
記憶がないということを、聞きたくはなかった。
そんな意味にも捉えられる。
薙瑠は、まさにそれを考えていたのか。
真意を確かめるように、じっと子元の横顔を見つめていた。
そんな彼女に視線に気付いたようで、子元が彼女の方を見る。
二人の視線がぶつかった。
自分に注がれている、真意を探るような真剣な眼差し。
そこに、僅かな|冷たさ《丶丶丶》を感じた。
戦の時のものとは、また別の冷たさ。
そのせいか、彼女の真っ直ぐな瞳が、一瞬だけ記憶の中の少女の瞳と重なる。
子元は背筋が凍るような感覚を覚え、咄嗟に彼女から目を逸した。
何故か今日は、目の前にいる彼女と、過去に出会った少女が、頻繁に──重なる。
それは恐らく、自分のことが落ち着き、他のことに目を向ける余裕が出来たからだと思うのだが。
何故かそれだけではない気がして、胸のあたりがざわついている。
「ごめんなさい、変な話をしてしまいましたね」
呟くような彼女の言葉が耳に入り、子元はちらりと彼女の方を見遣る。
子元に注がれていた彼女の視線は、既に地に落とされていて。
その顔には、堅い微笑みが浮かんでいる。
自身の複雑な感情を誤魔化すような、そんな微笑みだった。
彼女が言った言葉とその横顔から、子元は自分の言葉選びの悪さに漸く気付く。
そのことにむしゃくしゃしたようで、片手で髪をかきあげながら空を仰いだ。
「違う。俺は、辛いことを」
「辛いことを聞いて悪かった、って言いたかったんですよね」
子元が言おうとした言葉を、薙瑠が被せるようにして言った。
子元は驚くように薙瑠を見る。
そう言う彼女の表情は、先程までの複雑な笑みではなく、明るい顔になっていた。
「……ふふ、子元様のそういうところ、本当に仲達様にそっくりですね」
「どういうところがだ」
「不器用なところが、です」
「…………嬉しくない」
むすっとする子元を見て、薙瑠は楽しそうに笑っている。
馬の上に跨って、前を向きながら話す子元。
|微風《そよかぜ》が吹けば、長い髪がふわりと舞い、その下からは綺麗な顔が覗く。
己の脚で歩いている彼女の位置から見れば、その背景には青く澄んだ空があり、彼の綺麗な横顔を引き立たせている。
薙瑠は、そんな子元の横顔を見ているのが好きだった。
彼女はくすりと小さく笑ったあと、改めて空を見上げる。
視界に広がる青い空。
至る所に浮かぶ白い雲。
雲の向こうにも、隠れて見えないだけで、青い空が広がっている。
普段と変わらない空の情景だが、それは彼女にとって、見ていると自然と心が落ち着く情景だった。
(私の記憶も、この空と同じ……ですね)
──今は、雲に覆われて|見えない《丶丶丶丶》だけ。
「……失われた記憶がどんなものだったのか気になりますが…… 記憶を失う、ということは、忘れたい程辛い過去だったのかも、とも思います」
薙瑠は静かに語り出していた。
空を仰ぐ彼女の口からは、穏やかに言葉が紡がれてゆく。
「でも、記憶がないということを、辛いと思ったことはありません。失ったのならば、また見つければいい。簡単なことではないですけど……記憶の欠片を集めることは、きっとできるって、そう思うんです」
彼女の言葉を聞きながら、子元も再び空を見上げる。
視界に写る空の雲は、風の流れに身を任せ、ゆっくりと動いている。
その雲が流れてゆけば、その下からは青い空が顔を出す。
「記憶の欠片を集める……か。
それはまるで、記憶という空を、雲ひとつない空に変えるみたいだな」
「はい。そう言うと、とても素敵なことのように聞こえますね」
「素敵……かどうかは分からんが、良い事ではあるだろう。少なくとも俺はそう思う」
そう言いながら、子元は小さく微笑んでいた。
しかし、その微笑みとは裏腹に、内心は不安でいっぱいだった。
彼女の記憶がないということは、その可能性もあるということだ。
薙瑠が、過去に出会った少女──|蒼燕《あおつばめ》であるという、可能性が。
その時、子元の微笑みが僅かに曇ったことに、薙瑠は気付かなかった。
「私達、本当に相性が良いんですね。記憶の話を空に例えたりしたこととか、考えてることまで同じなんだって思うと、嬉しいです」
そんな彼女の言葉に、子元は一転、大きく動揺する。
「……そ……れは、〈華〉の相性がいいからこそ、同じことを考えるんじゃないか……?」
「ふふ、そうかもしれませんね」
子元の考えていることを|他所《よそ》に、薙瑠は嬉しそうに笑っている。
一方で子元はというと、彼女の言葉のせいで、先程までの考えなど一瞬にして吹き飛んでいた。
相性がいい。
考えていることが同じ。
それが嬉しい。
何てことない普通の言葉。
それが彼女の口から紡がれた瞬間、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
だから僅かに、言葉を詰まらせたのだが。
(…………本当にどうしたんだ? 俺は……)
当の本人は、それが何の感情なのか、まだ気付いてはいなかった。
雲が浮かぶ青い空の下、その道中で二人は語る。
たった二人だけだが、その間には様々な感情が絡みついている。
二人を撫でる優しい風は、時間が経つにつれて、徐々に強くなっていく。
複雑に絡み合う感情を一掃するかのような、強い風。
辺りが紅く染まる夕刻。
その頃には、空は雲ひとつない、真っ赤な空になっていた。
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