── 第参章 ──
其ノ陸 ── 誰モ知ラズノ其ノ先へ (6/11)
森の木々、村の家屋、周囲の|長閑《のどか》な自然の景色。
それらは跡形もなく消え去り、天には黒煙、地には焔。
|焔煙《えんえん》が天地に|漲《みなぎ》る状況だった。
|子元《しげん》と|薙瑠《ちる》の二人は、焔に呑み込まれそうになったものの、子元の機転により、半円の水泡の中でそれを凌いだのだった。
「……薙瑠、大丈夫か?」
「は、はい」
子元は心配そうな顔をしながらも、己の腕の中に居る彼女の無事を確認すると、その力を緩めて解放する。
同時に、展開していた水の膜を、刀を横に薙いで消滅させた。
途端、水泡によって遮られていた周囲の熱が、二人を襲う。
「っ……くそ、してやられたな……だが何はともあれ、属性的に勝っていたのが幸いだった」
「はい。ありがとうございました、護ってくださって」
「気にするな。それよりも、あいつは囮だったのか?」
「囮……と言うよりは、私達の居る場所を確認したのでしょう。それを仲間の鬼に伝え、今に至る……ということかと」
「もっと言えば、一番最初に君たちのことを報告してくれたのは、この村の民だったよ?」
村があった方向。
今や煙と焔の、|黒紅《くろくれない》の海と化したその場所から、第三者の声。
瞬間的に、薙瑠が子元を護るように立ちはだかった。
炎と煙の中から、人影がひとつ、近付いてくる。
僅かな風。
それが辺りの煙を飛ばし、人影の姿が|顕《あらわ》になった。
「その装い……やはり、|呉国《ごのくに》の者でしたか」
「挨拶代わりに|大火傷《おおやけど》を負わせてあげようかと思ったけど、残念、無傷だったみたいだね」
家屋が燃え盛る中、朱色の|華服《かふく》を揺らしながら、茶髪の彼は不気味に|嗤《わら》っていた。
薙瑠は鋭い目つきで彼を睨み、抜刀の構えを見せる。
「ふーん、やる気満々だね」
「……どういうつもりですか。この村には、まだ生きている民が居たはずです」
「うん、そうみたいだね」
彼は話を聞きながら、興味なさげに周囲を見回した。
見渡す限り、目に映るのは|朱《あか》い焔と舞う火の粉、そしてその中で、黒に染まるのは、家屋を形成していた木材。
村にいた人々の存在は見えないが、目に見えなくてもこの有様だ、確実に亡くなっているだろう。
睨んでいる彼女の青い瞳は、どこか苦しげな視線を送っていた。
「彼らは、普通に生きていただけです。
当たり前のように、毎日を過ごしていただけなんです。
それを……協力させたにも関わらず、こんなにも酷い仕打ちをさせるのですね」
「それは何、この村にいた民のことを言ってるの?」
「当たり前でしょう。罪のない人々を巻き込むなんて──……」
途端、言葉が不自然に途切れた。
表情を曇らせた彼女の口からは、その先の言葉が紡がれない。
代わりに、彼が馬鹿にしたような笑いを浮かべながら、言葉を次いでやる。
「許せない。って、言おうとした?」
「……」
「その様子だと、漸く|今の《丶丶》自分の立場を理解したみたいだね」
今の、立場。
その言葉で、子元は彼が言わんとしていることを理解した。
桜の鬼は、鬼から人間を護っていた、伝説の鬼。
話によれば、その鬼はどの国にも所属していなかったという。
民の平和を脅かしているのは国だ。
もちろん、そればかりが要因ではないが、戦ともなれば、その責任は間違いなく国にある。
だからこそ、桜の鬼は弱者の味方になって、できる限り人間を護ってきた。
──しかし。
「桜の鬼である君は、今や|魏国《ぎのくに》に所属してる。君の中に弱者を護るという意思があっても、結局は護れない。
それが、まさに今の──この有様だよ」
ここが己の舞台だとでも言うように、彼は両手を広げて愉快な笑みを浮かべている。
ゆらゆらと揺れる短めの茶髪、周囲の焔を写し込んで煌々と輝く琥珀色の瞳。
彼のその姿は、|緋色《ひいろ》の景色に残酷なほど似合っていた。
「……で? お前はここが魏の領内だと知りながら、その民を利用したと?」
子元は俯き気味の薙瑠の隣に並びながら、彼女の肩に手を添えた。
──こいつは、俺に任せろ。
そう彼女に伝えるように。
薙瑠は驚いたように子元を見る。
真っ直ぐと敵を見据えている彼の横顔から、その意図を理解したようだった。
しかし、側近としての立場を考えたのか、僅かに逡巡するも、結果的には抜刀の構えを解いた。
それを確認して、子元は一歩前に出ると彼に問いかける。
その左手に在るは、先ほどの焔を凌いだ刀。
「お前が言う、一番最初。俺達がこの村を訪れようとした時、薙瑠の姿を見て逃げていく者がいた。そいつがお前に俺達のことを報告したと言う訳だな」
「ご名答~。まあ、僕に報告したんじゃなくて、|茱絶《じゅぜつ》に報告したんだけどね」
「茱絶? それが村を襲った奴の名か」
もう一方の手で、虚空から刀を出現させる。
二刀流。
両手に刀を握り、灰色の髪と|白群色《びゃくぐんいろ》の華服を身に纏う佇まいは、|眉目秀麗《びもくしゅうれい》の言葉に相応しき姿だった。
「へぇ、君が噂の|司馬《しば》子元か」
「だったらなんだ?」
「別に? 僕は|陸《りく》|伯言《はくげん》。覚えておいてくれると嬉しいな」
伯言と名乗った彼は、余裕な態度で微笑む。
「忘れるな、ここは|魏国《おれたち》の領土だ。こうなった以上、ただでは帰さない」
「ははっ、帰るつもりなんてないよ。僕たちにもちゃんと目的があって来てるんだからさ」
子元はちらりと薙瑠を見遣る。
彼女も今の話を聞いて理解したのだろう。
彼らの目的は〈|逍遙樹《しょうようじゅ》〉。
そして彼らはそれを、|既に燃えて《丶丶丶丶丶》|なくなっている《丶丶丶丶丶丶丶》と認識しているであろうことを。
「……なるほど。してやられたというわけか」
「今頃気付いたんだ? 呑気だね」
「なんとでも言え。一対二の時点でこちらが有利である事に変わりはないからな」
悠々と言葉を紡ぐ子元を見て、彼の笑みが消え、悔しそうに顔を歪めた。
──かと思いきや。
先ほど以上に歪んだ笑みを浮かべて、力強い一言を言い放った。
「ばーーーか」
その態度に、今度は子元が訝しげに顔を歪めることとなる。
そして直ぐにその意味に気付いた。
刹那。
二人の背後、炎の森の中から急接近してくる気配。
しかし、子元は焦ることも振り返ることもしなかった。
──信頼できる存在が、己の隣に居たからだ。
子元の期待通り、薙瑠が素早く彼の背後に回り、水色の|上衣《うわぎ》を|靡《なび》かせながら、接近してきた存在を迎え撃った。
右足を大きく一歩踏み出して、鞘から一気に、斜めに斬り上げるようにして|太刀《たち》を引き抜く。
そして響くは、刀同士が交錯する音。
「なっ……!?」
驚きの声を上げたのは、子元と相対する伯言だった。
驚愕の表情を浮かべる彼を見て、子元は静かに口角を上げる。
「視えていないとでも思いましたか?」
子元の背後で、抜刀した薙瑠が小さく微笑んだ。
しかし、彼女が相対しているそこに居るはずの存在は、姿が見えなかった。
彼女の言葉である程度の状況を把握した子元は、肩越しに背後をちらりと見遣る。
「……なるほど、|其処《そこ》には姿を消せる鬼がいるということか」
「はい。残念なことに、私相手には姿を隠せてはいませんが」
「ふ、流石だな。ならばその相手はお前に任せる」
「承知いたしました、子元様」
薙瑠の返答を聞いた子元は、悔しそうに顔を歪ませる伯言へと視線を戻す。
緋色の海の中、背中合わせに立つ子元と薙瑠。
その空間に、ぱちぱちと焔が燃える音だけが響く、|一時《いっとき》の静の時間が訪れた。
刹那の時が流れしのちに。
|火焔《かえん》と|水漣《すいれん》の華が舞う。
*
*
*
「っははは!! その程度かよ!!」
子元の横に薙ぐ素早い一撃を軽く弾きながら、伯言が叫んだ。
「貴様もな!!」
子元は容赦なくもう一刀を襲わせる。
二刀流であるが故の連撃。
しかし、その斬撃は|虚《むな》しく空を斬った。
下方に避けた伯言が狙うは、一瞬の隙が出来た子元の腹部。
「ざまぁ! 油断しすぎなんだよッ!!」
狂気的な笑みを浮かべながら、力強く、そして素早く刀を薙ぐ──が。
「なっ……!?」
彼の顔から笑みが消え、驚愕の表情が浮かぶ。
子元の腹部はその太刀筋に沿って切り裂かれてはいるが、それはまるで霊体のように、実態がないものだった。
「油断してるのはお前だろう?」
驚愕している伯言を、子元は口角を上げて見下ろしている。
その残像を残して、彼の身体は闇に溶けるが如くゆらりと消えた。
「|此方《こちら》だ」
伯言の背後には、いつの間に移動したのか、水色の和装を|靡《なび》かせながら刀を振りかぶる子元の姿があった。
一瞬の、静の時間。
直後、伯言は素早く振り返り、その勢いにのせて刀をはしらせた。
二人の刀が交錯し、甲高い音が木霊する。
一撃を止められた子元は、地を蹴って距離を取った。
熱風が二人の間を通り抜け、互いの髪や和服をゆらりと揺らす。
「お前の属性、|水《すい》の気だけじゃなく、闇……|陰《いん》の気を持ってるのか」
「ああそうだ、寧ろ後者が俺の中心だな」
「へー、なるほどね」
真剣になっているからか、半ば口調がきつくなっている伯言は、険しい表情で子元を見ていた。
しかし、突如として彼の顔に笑みが浮かび、細められた琥珀色の瞳が煌めく。
「最初に忠告しとくよ。僕は|火《か》の気を持ってるんだ」
「今更それか? 周囲を見れば嫌でも分かる」
「じゃあ僕がどうするか分かるよね」
言っていることが理解できず、子元は怪訝な顔をした。
そんな子元と目を合わせたまま、伯言は後方──炎の中へと身を投じた。
思いがけない彼の行動に、子元は目を丸くする。
火を操る鬼とは言え、炎の中に自ら飛び込んでは無傷では済まないだろう。
などと考えていた矢先に、何かが炎の中から飛来し、目の前に迫っていた。
時が止まったかのように、それは目の前に停滞し、むわりとした熱が顔を襲う。
子元の瞳に映り込むは、緋色に輝く焔の玉。
「っ……!」
反射的に上半身を傾けて左に避ける。
が、その素早き動きに付いて来れず、空中で停滞した長い青髪の一部が焔玉の餌食となった。
耳元で髪の毛を焦がす音が聞こえたときには、子元の背後で爆発音にも似た音が空気を震わせていた。
「あはははははっ!! 逃げ切れると思うならやってみろよ!!」
そんな台詞と共に、間髪を開けずに次から次へと、それもあらゆる方向から焔玉が飛来する。
まるで周囲の炎が意思を持って攻撃しているかのようだった。
子元はそれを華麗な足|捌《さば》きで、時には己の太刀で両断しながら|躱《かわ》し続ける。
彼の動きを追うように舞う着物の端は、焔玉を完全には避けきれず、躱す度にちりちりと削れてゆく。
このままでは、体力的にも何れ限界がくるだろう。
(くそっ……! 周囲の炎を全て操ってるのか……!? しかし、反撃しようにも場所が分からない状況では……)
焔玉を躱しながら、漸く伯言の意図を理解し、子元は顔を歪めた。
そう、今の子元には、伯言の居場所が分からないのである。
(己が作り出す炎なら、自分と同じ妖気が含まれることをうまく利用したというわけか。──ならば)
子元は躱し続けていた足を止めた。
迫り来る焔玉を両断し、次が飛来するまでの僅かな時間。
両手に握る刀の刀身が青白い色に染まる。
子元はその二刀を己の前で交差させ、素早く左右に薙いだ。
刹那。
|花弁《はなびら》を模したような数多の小さな刃が、前方の炎目掛けて飛翔する。
それが炎に触れると同時に、弾けるように|水飛沫《みずしぶき》が舞った。
しかし。
家屋などの木材はすぱりと切断していく。
|紛《まご》うことなき刃だ。
あちらこちらで水飛沫が舞い、緋色の景色は|忽《たちまち》ち失われていく。
そんな中、炎の中から上空へと飛び出した影。
身を隠していた伯言だった。
着物や袴の裾は子元と同様にちりぢりになっているものの、それ意外に焼け焦げた|痕《あと》や火傷の様子は見られない。
あの炎に、身を投じたにも関わらず。
子元はその隙を見逃さずに、その場から姿を消した。
──否。
空中にいる伯言との間合いを瞬時に詰めたのだ。
伯言がそれに気付いたときには既に、目の前に子元の姿があった。
一瞬の隙を突かれ、伯言は目を丸くする。
「油断しすぎだ」
小さな笑みを浮かべながら子元は静かにそう言った。
青き月光の如く輝く|双眸《そうぼう》は、伯言の脇腹へと狙いを定める。
漆黒に染まった左の一刀を、身体を捻った状態から勢い良く薙いだ。
その、瞬間だった。
伯言の唇が弧を描く。
「|焔鏡《ほむらかがみ》ッ!!」
叫び声と共に、子元の目の前、伯言を護るようにして虚空から現れたのは、円形の鏡の様なもの。
子元自身が、それに己の姿が映るのを確認したときには、子元が薙いだ刀の刃がその鏡に接触していた。
刹那。
子元の身体は、全身への強い衝撃とともに、後方へ勢い良く吹き飛ばされていた。
激しい音を立てて、黒く焦げた家屋に衝突する。
「だぁれが甘く考えてるって? 甘く考えてんのはお前の方だよ、司馬子元」
伯言は軽い足取りで着地し、前方に浮遊している円形の鏡──銅鏡のようなそれの背に、指先で軽く触れる。
すると、鏡は仄かな光を放ちながら形を変え、もとの刀の姿へと戻った。
それを手に、子元が衝突したことで崩れ落ち、瓦礫の山と化した家屋へと、ゆっくりと歩を進める。
ゆらゆらと揺れる、金色の刺繍が入った朱色の袖口。
彼が纏う着物の背には、大きな火の鳥──火の神とも言われる|朱雀《すざく》が描かれていた。
「鏡──火の神と書いて、|火神《かがみ》。
火の神と言えば、|金烏《たいよう》を指すこともあって、鏡はその|陽光《ひかり》を反射する。
──何が言いたいか分かったでしょ?」
家屋から一定の距離を保ったところで、伯言は歩みを止める。
刀を肩に担ぐと、彼は歪んだ笑みを浮かべた。
「|焔鏡《ほむらかがみ》。
僕の刀は鏡に|変化《へんげ》する能力を持つ。
その鏡に写した攻撃は、|金烏《たいよう》の|陽光《ひかり》の如く、何でも跳ね返しちゃうんだよ」
一部の炎は未だ燃え盛っているものの、緋色に染まっていた大部分は子元によってかき消され、|無彩色《むさいしょく》に変わり果てた景色の中。
|金烏《たいよう》の如く輝いている琥珀色の|双眸《そうぼう》が、子元がいるであろう場所を見据えていた。
ガタリと音を立てて、崩れ落ちた木材が動く。
「……反射、か。そんな能力があるとはな」
大きな木材がひとつ、伯言目掛けて飛んでくる。
彼はそれを軽く一刀両断した。
木材を蹴飛ばし、瓦礫の山の中から姿を表した子元は、右手で左腕を抑えるようにして立っている。
僅かに笑みを浮かべてはいるものの、苦痛のせいか眉根を寄せていた。
鬼は傷の自己修復能力が高い。
しかし、瞬時に塞がるわけではないのだ。
彼の額や頬には血が伝っており、着物や袴もあちこちが裂けて、白い肌と共に赤い傷口が覗いている。
特に酷いのはその左腕だった。
右手で傷口を抑えてはいるが、左手の指先からぽたりぽたりと赤い雫が滴っている。
青い着物が広範囲で赤黒く染まっているのが、その惨状を物語っていた。
「なーんだ、まだ元気そうじゃん」
「んなわけあるか。受け身も何も出来なかったからな」
「ふーん。だけどなんで腕が千切れてないのかな、せっかく超接近した時を狙ったのに」
本当に感心しているらしく、興味深そうに子元を見ていた。
一方子元はと言うと。
未だに何が起こったのかを理解できていなかった。
彼の言う、反射。
確かにそれは身を持って経験したため、言っていることは何となく分かる。
刃が鏡に触れた直後、鏡から強力な斬撃が飛んできた。
至近距離だったが為に、避ける間もなく、左腕が犠牲になりかけた。
なりかけた、というのは、斬撃が腕を斬り裂いた瞬間、自身の身体を闇と化した事により、それは子元の身体を斬ることなく通り抜け、それ以上の傷を負うことなく事なきを得たのである。
補足をしておくと、彼が自身の身体を闇の如く透過できるのは一瞬だけ。
つまり、その避け方は紙一重で大惨事になっていた可能性もあるということだ。
(あの瞬間……己に陰の気が無かったと思うと……ぞっとするな)
子元は頭の中で振り返りながら、己の身に起きたことを整理してゆく。
その間は時間としては僅かだったが、伯言が何もせずにいる訳もなく。
彼の唇が嬉しそうに弧を描いた。
「ま、何はともあれ、そんな状態じゃあもう戦えないよね」
「くっ……」
「ははっ、残念だなぁ」
そう呟いた瞬間、子元に向かって飛びかかった。
「死ね!!」
琥珀色の瞳をぎらつかせた鬼が、子元を貫こうと迫る。
──足と右腕はまだ無事だ。
──ぎりぎりで避けて、油断した隙を狙えば……
じっと見据えて、左腕を抑えていた右手を離し、虚空から再度刀を出現させた。
笑みを浮かべた伯言の姿が、間近に迫るのを瞳に映していた子元だったが。
予想もしない出来事が起こった。
伯言の背後から、何者かの回し蹴り。
「がっ…………!?」
それは彼の脇腹に命中し、伯言の身体は勢い良く横に吹き飛んだ。
「──!?」
何が起きたのかを理解するのに数秒を要したが、その場に現れた第三者の姿を確認すると同時に、子元は胸を撫で下ろす。
漆黒の長い髪をなびかせ、その下から覗く禍々しい深紅の瞳。
その様は何処か|仲達《ちゅうたつ》とそっくりで。
「……|鴉《からす》」
小さな声で彼の名を呼んだが、子元は何処か違和感を覚え、僅かに訝しげな顔をする。
というのは、今まで見ていた鴉と相違な点があったからだ。
先ずひとつ目に、前髪の癖毛。
鴉には本人から見て左に流れるような、特徴的な癖毛があった。
それが今は逆になっているということ。
ふたつ目に、身長。
鴉の身長は子元より低く、寧ろ彼女──薙瑠より僅かに高いくらいの筈だが、今は寧ろ子元と同じくらいである。
そしてその声を聞いて、更に驚かされることとなる。
「|退《ひ》くぞ」
普段の声よりもかなり低い声音だった。
別人なのではないかと思う程の違いに頭がついて行かず、子元は思わず凝視する。
「……おい、聞いているのか?」
「ま、待て、退くだと? 父上から命でもあったのか?」
怪訝な顔をしながら尋ねる子元を見て、鴉の顔が不機嫌そうに歪んだ。
「薙瑠が重傷だ。俺たちはここで退くのが妥当だと言っている」
「……は……?」
──薙瑠が重傷だ。
そんな鴉の言葉が子元の中で反復し、その後の言葉は彼の耳には届かない。
彼の言っている言葉が信じられず、彼はただ立ち尽くすほかなかった。
しかし、そのすぐ後に、鴉の言葉が事実であることを思い知らされることとなる。
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|桜《サクラ》 |之《ノ》 |囮《オトリ》 者《ナルモノ》。
|其《ソノ》 |使命《シメイ》 |未《イマダ》 |終《オハラズ》。
|真《シンナル》 |使命《シメイ》、|始《コレ》 |自《ヨリ》 |此《ハジマル》。
|運命《ウンメヒニ》 |従《シタガヒ》 |行《ユク》。|不知 誰《ダレモ シラズノ》 |其《ソノ》 |先《サキヘ》。
【桜を誘き寄せる為の囮。
その使命はそれで終わりではない。
本当の使命は──これからだ。
運命に、従い行く。
誰も知らずのその先へ。】
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