── 第肆章 ──
其ノ伍 ── 桜ノ傀儡ト存在意義(5/15)
|再《フタタビ》 |蘇《ヨミガエル》。
|其《ソレ》 |即《スナハチ》〝|再度《フタタビ》〟──
|否《イナ》、〝|二度《フタタビ》〟|也《ナリ》。
【再び蘇る──
それは〝再び〟ではなく。
〝|二度《ふたたび》〟である。】
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冷たい空気に包まれた、青い空広がる|暁《あさ》の時間。
風の音も、鳥の鳴き声も聞こえない、静かな|暁《あさ》。
そのせいか、他の季節と違って、|玄冬《ふゆ》はどこか寂しさを感じさせられる。
しかし、そんな寂しさを忘れさせてくれる、|青春《はる》のような存在がいた。
「おはようございます、|子元《しげん》様」
もういる事が当たり前になっているその存在の声を聞くと、子元はどこか安心できるのである。
回廊から空を見上げていた彼は、その声がした方へと視線を移す。
そして小さく微笑んだ。
「おはよう、|薙瑠《ちる》」
「疲れはとれましたか?」
「ああ、昨日は丸一日、休息の|時間《とき》をもらえたからな」
「ふふ、それなら良かったです。あの話があったその日の昼下がりに発って、その翌日……昨日の|暁《あさ》にはこちらに着くなんて、随分急いだようですね」
「……まさか|宵《よる》にも走らされるとは、正直思いもしなかった」
小さく|欠伸《あくび》をしながら、子元はぽつりと不満を漏らす。
そんな子元をみて、薙瑠は小さく笑った。
いつも通りの光景だが、二人がいるのは|洛陽《らくよう》ではなく、|鄴《ぎょう》。
その土地にある曹操の屋敷内だった。
|子桓《しかん》からの話があったのは、今から僅か二日前。
そして昨日の|暁《あさ》に、子桓と子元の二人は鄴に着いていた。
普通ならば、宵の刻は賊の奇襲などを避けるため、戦以外の時には無闇矢鱈に移動をしたりはしない。
しかし、賊は|人間《ヒト》であることが殆どであるため、鬼であるならば時間を問わず外に出る場合がある。
今回がまさにそれだった、らしい。
「お前はいつ来たんだ?」
「先日の夕刻、です。私が来たこと、鴉様から知らせがいきませんでしたか?」
「鴉……あいつ、護衛も兼ねてと言っていたが、洛陽を発ってからほぼ姿を見てないぞ」
空を飛んでるのは見たが、とどこか不満そうな顔で言う子元を見て、薙瑠は半ば苦笑する。
「ああ……そういうところがある方なので……すみません、鴉様に代わって私から謝罪します」
「いや、別にお前が謝る必要はどこにもない」
申し訳なさそうにしゅんとする彼女を見て、子元は小さく微笑みながら優しく頭を撫でてやる。
そんな二人の微笑ましい光景を、離れて見ている人物が一人。
「……何も知らないってのはお気楽でいいな、全く」
聞こえないように小声で呟く彼の青い双眸には、二人──特に子元の姿が映し出されていた。
暫くその様子を傍観したあと、彼はゆっくりと二人へ近づいてゆく。
「よお、ゆっくり休めたか?」
足音と共に紡がれた挨拶の言葉に、二人の視線は彼へと向けられ、その存在を確認すると丁寧に|拱手《きょうしゅ》した。
いつも通り微笑んでいる薙瑠とは対象的に、子元は先程の微笑みから一転、真面目な顔になる。
「おはようございます、|子桓《しかん》様」
「……おはようございます」
「おい子元、なんだその不服そうな顔は? 二人きりの時間を邪魔されて不満なのか?」
「はっ……!? いえ、そんなつもりは」
「お前は顔に出過ぎだ。そこだけは|仲達《ちゅうたつ》と似ても似つかないところだな」
出会って早々にそんなことを言われ、子元は反論する術もなく押し黙る。
子元としては普通の顔をしていたつもりだったのだろうが、どうやら無意識のうちに眉を|顰《ひそ》めていたらしい。
そして彼が眉を顰めたのは、二人の時間を邪魔されたからではなく、単純に子桓のことに慣れていないから。
──と言うのが本人の認識なのだが、他人から見れば、邪魔されたことに対する反応だと捉えてしまってもおかしくない。
朝から言い合う二人を見て、薙瑠は楽しそうに笑っていた。
「ところで桜薙瑠。お前は力を使って|此処《ここ》に来たんだったな?」
「はい。ですので、先日の昼過ぎまでは洛陽で過ごしていましたが、夕刻にはこちらにいました」
「考えられんな……まあいい。それより、その力を使えば何処でも一瞬にして行けるのか?」
「いえ、一度訪れたことがある場所か、鴉様が居る場所に限られます」
「ん……? 待て、俺達が洛陽を発つ時点で、お前は先に行くことも可能だと言っていたな。
……ということは、今回の場合は前者になるのか」
「はい、仰る通りです、子桓様」
嬉しそうに笑う彼女の言葉に、子元は首を傾げていた。
今回は前者、つまり一度訪れたことがある場所だったからこそ、彼女はここに来れたと言う。
それはつまり、彼女は過去に一度は|此処《ここ》──鄴に来たことがあるということになるからだ。
子桓も同じような疑問を抱いたらしく、僅かに怪訝な顔をしていた。
「お前、ここに来たことがあるのか?」
「いいえ、|私は《丶丶》ありません。初めてです」
「私は……か。なるほど、つまりそれは」
「はい、そういう事です」
薙瑠と子桓は二人で話を進めているが、子元には何がどういうことなのか、さっぱり理解できていなかった。
──が、「私は」という彼女の言い方から、推測できることがあった。
彼女が|鄴《ここ》に来ることは初めてであるが、この場所は既に「過去に訪れた場所」とされていること。
父親である仲達から、曹操は桜の鬼に会ったことがあるという事実を聞いたこと。
そして、桜の鬼は一人ではないということ。
これらのことから推測できるのは──
「薙瑠ではない桜の鬼が、過去に鄴を訪れた……?」
「なんだ、お前にしては冴えてるな」
「では……|孟徳《もうとく》様が会っていた桜の鬼、というのは……」
「そうだ。こいつの前に居た、二人目の桜の鬼だ」
「……二人目」
道中でも『|幻華譚《げんかたん》』の話のときに関わっていたのは〝二人目〟の桜の鬼だと言っていた。
二人目がいるならば必然的に一人目も居るはずで。
しかし、何故今のところ話に出てこないのか、子元は不思議に思っていた。
「その辺りの話の詳しいことは、帰ってから『幻華譚』で読むといい」
子元の考えていることを見抜いたのか、子桓がそう付け加えたとき、彼の背後から女官が三人に近付く。
子桓がその気配に気付いて振り返ると、女官は立ち止まって礼をした。
「子桓様。曹孟徳様がお呼びです」
「ああ、今から行く。こいつらも連れていけばいいんだな?」
「はい、そのように聞き及んでおります」
「そういうわけだ、行くぞ」
身を翻して歩き始める子桓のあとを、子元と薙瑠の二人もついてゆく。
──ついに|来《きた》る、対面の時。
何が語られ、何を知るのか。
子元はどこか緊張した面持ちで、子桓と薙瑠の二人とともに、|最初《はじまり》の鬼──曹操の元へと向かった。
*
*
*
向かった先は大広間。
──かと思いきや、子桓が二人を案内した場所は、小さな一室。
大広間のような広い場所ではなかった。
閉じられている戸を軽く数回叩いてから、子桓は室内にいるであろう父に声をかける。
「|曹《そう》子桓、只今参りました」
「──ああ、入れ」
滑らかでいて威厳のある声が聞こえ、子桓は戸を開ける。
開かれたその場所は、執務室であるようだった。
机上に置かれている複数の竹簡と、広げられた地図。
それと向き合うようにして、彼はいた。
机上に落とされていた視線が前を向き、癖のある前髪から覗く双眸が、三人の姿を捉える。
ただ視線を向けられただけだというのに、子元は僅かに悪寒を覚えていた。
一方で子桓は相変わらずの|飄々《ひょうひょう》とした態度で室内に入り、机の前で丁寧に拱手する。
「お待たせいたしました、父上。
司馬子元と、そして桜薙瑠の二名を連れて参りました」
子元も薙瑠と共に室内に入り、子桓の隣に並ぶ。
背後から聞こえるは、女官が戸を閉める音。
外界と遮断されたことで、より一層緊張感のある空気の中に包まれ、子元はどこか息苦しさを感じた。
それでもその空気に呑まれぬよう、自分の気を引き締める思いで、それでいて丁寧に拱手した。
薙瑠も彼の隣で拱手する。
「司馬子元、只今参りました」
「子元様にお仕えする、桜薙瑠と申します」
二人がそれぞれ挨拶をしたところで、曹操は漸く顔を上げ、椅子の背もたれに背を預けた。
そんな彼の口角が上がる。
青い双眸も爛々としており、彼は今この瞬間を楽しんでいるようだった。
「漸く会えたな……桜薙瑠」
「はい、お初にお目にかかります、曹操様」
薙瑠は普段通りに、柔らかく微笑んで対応する。
「こうして会話をするのは初めてだが、あの村で既に会っている。そんなに畏まらなくていい」
「お心遣い、感謝いたします」
「司馬子元、お前もだ」
「はっ、お気遣いいただき、ありがとうございます」
丁寧に拱手しながら応える二人をじっと見たあと、曹操は穏やかな声音で。
「桜」
彼女の名を呼び、軽く手招きした。
もっと近くに来い、という意思表示らしい。
薙瑠はそれに素直に応じて、数歩歩み寄り、机の直ぐ前に立った。
すると曹操は、机の上に片肘をついて彼女を静かに見詰める。
癖のある青い髪──彼女と同じ色をした髪が僅かに揺れ、前髪の下から覗く鋭い双眸に、彼女の姿が映り込む。
曹操は座り、薙瑠は立っているため、普段なら彼女が曹操を見上げる形になる筈なのだが、今はそれが逆転しており、彼が彼女を半ば見上げている。
静かに交錯する、二人の視線。
その間には穏やかな|時間《とき》が流れていて。
まるで、親子のように意思を通わせているような──そんな雰囲気があった。
「……同じだな」
曹操は小さく呟くと、己の右手をゆっくりと伸ばし。
「違うのは……ここだけだ」
指先でさらりと、彼女の長い前髪を退けた。
そこに在るは、右眼とは似ても似つかない、|桃紅《ももくれない》の瞳。
その瞳をじっと見つめながら、曹操は薙瑠の頬に手を添え、桃紅の目の周り、頬骨の辺りを親指で撫でる。
「この右眼は、桜の鬼の証だな」
「はい」
「お前は、今の自分の立場をどう思ってるんだ?」
彼女の目元付近を撫でながら、曹操はそんな問を投げかけた。
思いもよらない言葉だったのか、薙瑠は僅かに驚いたような表情を浮かべている。
「私の立場、ですか?」
「この|時間《せかい》に生きる者を手駒に、偽りを終わらせようとしている……そんなお前は、どんな思いでそこに立っている?」
曹操の問いかけに、薙瑠は直ぐには答えなかった。
僅かな間を開けて、彼女は小さな笑みを浮かべるが。
その瞳に、光は宿っていなかった。
「私は〈|六華將《ろっかしょう》〉として、桜の鬼としての立場に在りますが……それらを以てしても、皆様と同じ状況だと考えます」
「同じ、だと?」
彼女の目元を撫でていた曹操の手が止まる。
頬から手を離す曹操の顔には、怪訝そうな表情が浮かんでいた。
「それは手駒としての俺たちに、気でも遣っているつもりか?」
「いいえ。本当に同じだからです。
立場は違えども、状況は同じなんです。
この|時間《せかい》に生きる者が手駒であると言うのなら、私は──」
彼女は俯き気味に小さな声で、しかし確かにこう言った。
──私は|傀儡《かいらい》です、と。
「自分を立場を言い表すのなら、これが一番相応しいと、そう考えています」
その言葉の真意を探るように、曹操の青き瞳は、爛々と彼女を射る。
「神に全てを捧げる……その言葉は、今でも嘘偽りないということだな?」
曹操の問いかけに、薙瑠は直ぐには答えなかったものの、その微笑みを崩すことなく。
「それが私の|存在意義《しめい》ですから」
ただ一言、そう答えた。
神に全てを捧げ、傀儡と成る。
それが己の使命だと、一切の迷いなく言ってのけた彼女だが。
そのとき子元には、彼女の瞳から一瞬だけ、光が消えたように見えていた。
一方で曹操は、彼女の僅かな陰りに気付くこともなく、満足そうに嗤っている。
「ふ、それでいい。
そうでなければ、お前がこの|時間《せかい》に居る意味がなくなるからな」
「……はい」
存在する意味がなくなる──ある種の恐ろしさを含んだそんな言葉を、嗤いながら言う曹操。
そしてその言葉に、哀しそうな色を見せながらも、否定することなく頷く薙瑠。
そんな二人から垣間見えるのは、残酷な世界の現状。
子元は胸の辺りが、紐で締め付けられるように、息苦しくなる感覚を覚えていた。
しかし、当然ながら。
世界の残酷な波に呑まれるのは、子元も同じ事だった。
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