── 第肆章 ──
其ノ陸 ── 狂イシ華ト背負イシ使命(6/15)
藍色の空が、明るい青に染まり始めた|暁《あさ》の刻。
|鄴《ぎょう》の都にある|曹操《そうそう》の部屋で、|子元《しげん》は世界の残酷さを目の当たりにしていた。
そしてその波は、容赦なく彼を飲み込んでいく。
「|司馬《しば》子元」
「は、はい」
|薙瑠《ちる》を見ていた曹操の視線は、突如として子元を捉え、彼は反射的に拱手の姿勢をとる。
小さく嗤いながら、曹操は|飄々《ひょうひょう》とした態度で言葉を次いだ。
「現時点では、あくまでも予測に過ぎないが。
お前が生かされたのも、お前に使命が与えられていたが故だ」
「……」
煌々と輝く曹操の瞳は、鋭く子元の胸を射抜く。
その言葉の真意は、先程、彼女に向けられた言葉と同じだろう。
つまり。
与えられし使命を果たさなければ、この世界で生きながらえた意味はない──
「〈|狂華《きょうか》〉。
あの出来事があったが故に、使命が与えられた者がお前だと、俺は判断した」
「何故……〈狂華〉が判断のきっかけ、なのですか」
「二人目の桜の鬼──桜|朔《さく》から、ある話を聞いてな」
曹操は僅かに目を伏せながら、記憶の糸をを手繰り寄せるように、静かに言葉を紡いでいく。
「『桜の力を借りし者。その者こそが、鳥を放つ役目を負っている。そしてその役目は、場合によってはその者を苦しめることになる』……と」
桜の力を借りし者──それが〈|狂華《きょうか》〉に陥ったことで、桜の力を必要とした子元である、というのが、曹操の出した答えだった。
子元自身も、直ぐにそれを察したらしい。
しかし、何と|応《いら》えを返すべきなのか、子元はただ黙り込むことしかできなかった。
「おい、俺の言っていることは間違っているのか?」
何も答えない子元に痺れを切らしたらしい曹操の矛先は、突如薙瑠へと向けられた。
薙瑠は小さく微笑みながら、首を横に振る。
「いえ、間違いではありません」
「そうだよな」
彼女が肯定したということは。
彼が生きながらえたのは、使命がある故だと。
そしてその使命を果たさなければ。
彼が生きながらえた意味が、無いのだと。
彼女自身も、子元の存在をそう捉えているということに他ならない。
胸がちくりと痛むような、そんな苦しみを覚えたものの。
そう考えることで、理解できたこともあった。
──貴方は何も知らなすぎる!!
桜の木の下で、彼女が子元へと突き付けた現状。
〈|狂華《きょうか》〉に陥ったことは、偶然じゃない。
彼女が、自分の前に桜の鬼として現れたのも。
そして、自分の〈|開華《かいか》〉をしたのも。
それは、|役目を負った《丶丶丶丶丶》|からこそ起きた《丶丶丶丶丶丶丶》出来事なんだと。
しかし不思議と、子元は傷付いていないようだった。
これから知っていくと、心に決めたからだろうか。
辛い現実を突き付けられているのにも関わらず、気持ちは落ち着いていて。
そのことに、子元だけでなく、彼の様子を伺っていた薙瑠も安堵していた。
彼の〈華〉は、強かに咲いている。
酷な現実の、感情の波に呑まれることなく、己の輝きを保っている。
それを視た薙瑠は、酷く悲しそうな顔をして|微笑《わら》っていた。
「子元」
子桓は静かにその名を呼んだ。
真っ直ぐと子元を見据えながら、どこか重みを感じる、そんな声音で。
「『その役目は、場合によってはその者を苦しめることになる』……その言葉の真意は分からないが、俺はその苦しみが、これから生まれるような、そんな気がしている」
子元の〈華〉が、動揺の風に吹かれたように、ざわりと揺れる。
その風は柔らかではあるものの、|花弁《はなびら》を数枚、崩してしまいそうだった。
「だが、その顔を見る限り、何も問題なさそうだな」
しかし〈華〉は崩れることなく、寧ろどこか気持ちよさそうに、風に揺れている。
そんな子元の表情も、爽やかで。
「はい、子桓様。覚悟は……できております」
子元は、穏やかに笑う子桓を、|己《おの》が意思をしっかりと伝えるように、真っ直ぐ見返した。
彼のはっきりとした宣言に、曹操も満足したらしい。
「ふ、良い顔になったな。
ならば一つ、お前に試練を与えよう」
「試練、ですか」
突如そんなことを言われ、子元に緊張が走ったものの、それを察した曹操は「安心しろ」と一言。
「試練とは言ったが、ただ確かめたいだけだ。
お前が、桜の力を借りし者であるという〝証〟を──な」
曹操は愉しそうに口角を上げた。
爛々とする瞳は、逃さないとばかりに、子元を鋭く射抜いており。
子元は背筋に悪寒が走るのを感じていた。
「桜薙瑠。
刀は今、部屋に置いてあるのか?」
「はい。何をしたいのか察しはついておりますので、お持ちいたしますね」
失礼いたします、と言って丁寧に拱手をした彼女は、踵を返して戸へ向かう。
静かな空間に、戸の開閉音だけが響く。
室内にいる三人は、彼女が姿を消していった戸を、暫くの間黙ったまま見つめていた。
「あいつは普段から|ああ《丶丶》なのか?」
静寂を割いたのは、子桓による子元への問いかけだった。
「と言いますと……?」
「刀だ。いつも手に持っているのか?」
子桓の意図が分からず、僅かに首を傾げていた子元だったが、すぐにその意味を理解したようだった。
鬼は内に刀を納められる。
それはつまり、常に携帯する必要がない、ということだ。
「確かに……彼女は普段から刀を携帯しております」
「やはりそうなんだな。
父上、あなたはあの刀に触れてみたいだけですね?」
「ふ、それの何が悪い」
悪戯好きの子供のように言う曹操に、子桓は半ば呆れている。
しかし、子元だけはその話の意図を把握できずにいた。
曹操はそんな子元に視線を移すと、にやりと口角を上げて嗤う。
「|本人と《丶丶丶》|特定の者《丶丶丶丶》|以外は《丶丶丶》|触れられない《丶丶丶丶丶丶》──そういう刀だ、あれは」
その言葉を聞いて、子元は漸く理解したのだった。
特定の者。
それ即ち、桜の力を借りし者であること。
そして、その者は、あの刀に触れることができるのであり。
それこそが──〝証〟なのだということを。
とは言え、刀に触れられない、という状況がどんなものなのかまでは、理解できるはずもなかった。
故に彼は、それを実践しようとしているのだろう。
触れられない者が、その刀に触れようとしたならば。
一体──どうなるのか。
そんなことを考えていれば、戸を叩く音が耳に入り。
同時に、戸の向こうから彼女の声が聞こえてくる。
「桜薙瑠です。入室してもよろしいでしょうか」
「ああ、良いぞ」
曹操の返答を合図に戸が開けられ、薙瑠は失礼致します、と挨拶をして入室する。
そんな彼女の左手には、普段から携帯している太刀が握られていた。
「お待たせいたしました、曹操様」
「ああ」
再び机の前に立って報告する彼女を、曹操は穏やかな表情で見ている。
そんな彼を見て、薙瑠は小さく微笑んだ。
「早速ですが、触ってみますか?」
「ふ……話が早くて助かる」
「詳しいことは敢えて述べませんが。
気を付けてください、とだけ、申し上げておきます」
彼の意図を早々に理解していたらしい彼女は、手にしている刀を両手のひらの上に乗せて、曹操の前へと差し出した。
室内に、静寂が落ちる。
彼は少しの間、その刀をじっと見つめたあと、ゆっくりと右手を伸ばしていく。
その長くて白い指先が、漆黒に塗られた刀の鞘部分に触れようとした──その刹那。
ぼっ、と小さな炎が燃え上がった。
表情ひとつ変えることなく、至って冷静にその様子を瞳に映していた曹操は、その手を戻す。
指先に視線を落とせば、炎に直接触れたその指先は、僅かに火傷を負っていた。
「……なるほど」
「大丈夫でしたか?」
「ふ、何も問題ない。
次はあいつらに触らせてみろ」
そんな事を言い出した曹操に、僅かに驚きの表情を見せたのは子桓だった。
「父上、何故私もやらねばならないのですか」
「文句言わずにやれ」
反論も虚しく一刀両断され、子桓は小さくため息をつく。
そんな彼のもとに、薙瑠は苦笑しながら刀を差し出した。
目の前の刀に、子桓は渋々と手を伸ばす。
結果は同じ。
小さな炎が、彼の指先を僅かに焦がす。
「これ……頑張れば掴めるんじゃないか?」
指先の感触からそう感じたらしい子桓が小さく呟いた。
「やってみますか?」
「いや……いい。もしかしたら、右腕ひとつ犠牲になるかもしれないからな」
「右腕だけで済むと良いですが」
「……微笑みながら言うな」
眉をひそめる子桓を見て、薙瑠は小さく笑う。
そしてその隣の子元に、刀を差し出した。
じっと刀を見つめている子元に、薙瑠は優しく微笑む。
そして。
「安心してください」
そんな一言が紡がれた。
その言葉が既に、触れても大丈夫だということを証明しているようだった。
小さく、深呼吸をして。
恐る恐る、刀に向かって手を伸ばす。
すると──
つ、と漆黒の鞘に指先が触れた。
曹操と子桓は、触れることすら許されなかったのにも関わらず。
子元の指先は、確かに鞘に触れているのである。
本当に触れることができてしまった事実に驚きを覚えながらも。
子元はその現状を再確認するかのように、指先で漆黒の鞘を優しく撫でた。
「触れたな」
そんな声が耳に届き、子元は視線を上げる。
声の主である曹操と目が合えば、彼は面白そうに、而して真剣な瞳で此方を見ていた。
そして低く、滑らかに紡がれた言葉は。
「それに触れたということは。
もう逃げることはできないと、しかと胸に刻んでおけ」
そんな言葉だった。
試練。
彼がその言葉を使った意味は、そこにあるのだろう。
それを理解した上で、子元は拱手し、真っ直ぐと見返しながら。
「承知いたしました」
確かな意思を込めて、|応《いら》えを返した。
そんな子元を見て、曹操は満足そうに笑う。
「ならば、俺が言うことはひとつだけだ」
いつも通りの、彼らしい笑みを浮かべながら。
「己が役目──必ず果たせ」
「はっ!」
心強い曹操の言葉に、子元は再び|拱手《きょうしゅ》して頷く。
薙瑠は一連の流れを見守りながら、子元は、彼は、本当に強い人だと、内心で感心していた。
それと同時に。
自分とは、正反対だと。
そうも思っていたのだった。
だからだろうか。
子元の爽やかで落ち着いた|表情《かお》を見るのが辛くなったようで、薙瑠は視線を落とすように彼から目を逸らした。
「さて……桜薙瑠」
そんな彼女の耳に、曹操の滑らかな声が届く。
彼女が視線を上げれば、そこには自分を見つめる、彼の瞳があり。
その瞳もまた、嫌になるくらい真っ直ぐなものだった。
「今度はお前の番だ」
「……はい」
その言葉の意味するところを、すぐに察したのだろう。
薙瑠はどこか、陰りを含んだ表情になりながらも、しっかりと頷いた。
そんな彼女の様子を瞳に映した曹操は、悠々と席を立ち。
「|茱絶《じゅぜつ》──あいつの処分を、お前自身で決めてこい」
煌々と揺れる、龍の如き蒼い焔。
それを瞳に宿す|最初《はじまり》の鬼が、桜を過去へと|誘《いざな》うのだった。
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|其《ソノ》 |昔《ムカシ》、|在 鬼神《キシンヲ シン》|信仰《コウスル》 農村《ノウソン アリ》。
|或 時《アル トキ》、|現 其村《ソノ ムラニ》 |青髪《セイハツ》|青眼 之《セイガン ノ 》 |鬼《オニ アラハル》。
|村人《ムラビト》 |呼 其鬼《ソノ オニヲ》|〝青《アオキオニ》|鬼〟《ト ヨブ》。
|其鬼《ソノ オニ》 |返《シンコウノ》 |信仰《オンヲ 》|之恩 為《カエサンガタメ》、|留《ノウソンニ》 |農村《スウジツ》 |数日《トドマルル》。
|而《シカシテ》 |其鬼《ソノ オニ》、|忽然《コツゼントシテ》 |消《スガタ》 |姿《ケス》。
【その昔、鬼神を信仰する農村があった。
或る時、その村に鬼が現れる。
髪と瞳の色から、その鬼は〝青き鬼〟と呼ばれた。
その鬼は信仰の恩を返すべく、
数日の間、その村に留まったと云う。
しかしその鬼は、突如として姿を消したのだった。】
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